事件

 五年前の記憶は、徹底的に壮太の男としてのプライドを苛んでいた。それは見知らぬ姉の恋人への憎悪となって壮太の中に根付いていった。
 ――姉を差し出した男に、いつか自分が受けたのと同じ屈辱を味わわせてやる。
 小学校を出て、中学を出ると、壮太はその世界では有名な道場に、住み込みで弟子入り志願した。すべては復讐のためだった。

「竜介先輩、今日はもう帰るんですか」

 壮太が声をかけたが、打ち込みを終えた竜介は、小さく頷いただけで足早に去っていってしまった。
 年のころ二十台半ば。壮太が道場に入ったときには既に修行を積んでいた先輩で、数少ない門下生のうちの一人――神矢竜介。
 壮太は密かにこの男のことを尊敬していた。
 抜群に強いのだ。
 目に留まらぬほど素早く的確に動き、一撃の攻撃力も凄まじい。以前、組み手を挑んだが、何が起こったかわからないうちに床に寝かせられていた。
 門下生の中でも最強。壮太も死に物狂いで修行に励んだが、この男には勝てる気がしない。武術の神と謳われる師範をもってして、一目置かれる存在なのだ。
 強さを求めてやまない壮太にとって、憧れの対象となるのは無理からぬことだった。

 竜介が帰ってしばらくすると、師範が道場に現れた。

「師範、おつかれさまです」
「竜介はもう帰ったのか?」
「ええ、さっき。稽古のあとどこか飲みでも行きませんかって誘ってみたんですが、断られちゃいました」
「飲みっておまえ、学校に行ってたらまだ高校生の年齢だろうが」
「気にしない気にしない」

 壮太は笑顔を浮かべてみせた。
 師範が、壮太が道場にいることについてあまり良く思っていないことはわかっている。いつかあの組織にも、そして姉を裏切った男にも復讐してやるという壮太の暗い復讐心を、薄々感づいているのかもしれない。

「でも付き合い悪いですよね、竜介先輩」

 竜介には、どこか人と一線引いたところがあるのだった。
 人の良い性格で後輩の面倒見も良かったが、どこか踏み込ませない壁があり、影がある。そこが気に入っていてもいるのだが。

「あいつは、まあな……いろいろある奴だからな」

 師範は口を濁した。竜介の話題になるといつもこうだ。
 いつもはそれに乗ってやるのだが、今回、壮太は突っ込んで聞いてみることにした。出掛けの竜介の態度が気にかかったのだ。妙に強張った表情をしていたから。

「いろいろって、なんですか。竜介先輩って、どういう人なんですか」
「あいつは……死にかけてたところをわしが拾ったんだ。五年前にな」
「……五年前」
「ああ。海沿いの倉庫で、ぼろ雑巾のようになって転がっていたらしい。徹底的に嬲られていて、担ぎ込まれた病院でも、もうまともな生活は送れないと言いきられたほどだった。今あれだけ動けるのは、奇跡だよ」

 壮太は戸惑った。
 嬲られた? あの竜介が?
 誰かに敗れた? 信じられない。
 五年前?

「逆らってはいかん奴らに逆らったのだ。半殺しで済んでマシな方だった。もう関わらない方がいい。だが竜介の奴は、絶対に恋人を助け出すんだと言ってきかない。何事もなければいいが――」

 師範が口にしたその恋人の名に、壮太の心臓が耳元で脈打った。久しく音として聞くことのなかった、姉の名前。

 話を終え、更衣室に入ると、壮太は迷わず竜介のロッカーの扉を開けた。
 息を呑んだ。惨憺たる有様だった。胴着やバッグがびりびりに引き裂かれている。ロッカーの中に無数の写真が見せ付けるように貼り付けられていた。
 何者かが竜介の修行中に、荒らしていったのだ。
 写真の中、目立つ位置に、一枚の紙切れが貼り付けられている。
 都内の超高層ビルへの地図と、壮太の姉の名前、そして金釘文字で、一言、『恋人を助けたければ来い』と書かれていた。

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